2011年6月20日月曜日

友への祈り(6/19)

とても晴れ晴れしい思いで大雪山から帰ってきた私を待ち受けていたのがとてもガッカリする二つの出来事。

(1)外で乾かしていた登山靴の片方だけキツネに持って行かれた。

(2)メーリングリストにどうにも人を落ち着かせなくする書き込みがあったこと。

書き込みの主は前から私信の内容を一方的に流すなど社会通念上いかがなものかと考えていたが、再び人格否定の内容を流してメーリングリストからドロップされる決定を受けたようだ。
これが気に入らずに更に頑なな言葉を残していった。

私も一回お願いのメールを送ったのだが、それに対する回答もなしに「私の言うことに対してひとこともないのか?」という一方的な言葉をメーリングリストに送りつけられては、じゃあ私のお願いはどうなのという惨めな思いがこみ上げるだけだ。

メーリングリストでもなんでも組織というのは設立の目的がある。
それを阻害されては除名の要望は仕方が無いのではないか?
そうせざるを得なかった管理人の苦しみはドロップされる立場よりも苦しいことはほかのメーリングリストの管理人をしている私はよく理解している。ITアドバイザーの痛みを分かち合えると思う。
管理人はそこまでの権限を与えられているから負担も大きい。
そんな事態を防ぐのがエチケット・ネチケットなのだが、最後までその所作が理解されなかった。
人の話を聞く。その人の立場になって考える。それだけのことなんですがね。

そんな中で新たに組まれたメーリングリストに鈴木健次東日本区事務所所長の祈りが流された。


憎しみのあるところには、愛を
不当な扱いのあるところには、一致を
疑惑のあるところには、信仰を
誤っているところには、真理を
絶望のあるところには、希望を
暗闇には、光を
悲しみのあるところには、喜びを
もっていくことができますように
慰められることを求めるよりは、慰めることを
理解されることよりは、理解することを
愛されるよりは、愛することを
求める心をお与えください
私たちは自分を忘れ去ることによって、自分を見いだし
許すことによって、許され
死ぬことによって、永遠の命をいただくのですから

人が陥りやすい頑なさよりも人をつつみこむ愛情が心に染みいり、感動してしまった。
人を強く突き動かすの怒りや憎しみよりも感動だと確信した。

彼のために鈴木所長も心労を重ねたはずだ。
それでも彼のために祈る強さをもっている。
私はまだまだひよこだ。それだけの強さは私にはない。持ちたいと思う。
どんな理屈よりも鈴木さんの祈りが美しく強い。

大雪山の間宮岳で手が届きそうな流れる雲をみて感じた爽やかさと救いがある。
彼にもそんな爽やかさとすがすがしさを感じて欲しい。
私たちの思いの小ささを感じる事ができるだろう。

彼は自分の主張に多くの支持があったと訴える。
しかし、不快感をそれ以上の仲間に与えてしまったことにも気が付いて欲しいと思うのだ。
主張そのものは傾聴に値するものだったのだ。
手法を間違えてしまったと私は考えている。

これは人ごとではない。誰でも陥るネットやコミュニケーションの罠だ。人間の弱さだ。

救いはそこにあるのに・・・どこにもあるのに・・・・
心さえ開けばともに支える仲間がそこにいるのに・・・・

私も彼のために祈ろう。

それが彼に怒りに似た惨めさを抱いた自分自身の救いを求める祈りでもある。

と同時に誰もいないだろうから後継者が出来るまでは北海道部ITアドバイザーを勤める覚悟を決めた。(笑)

鈴木健次東日本事務所長は年度をもって退任される。
本当にお疲れ様でした。これからもお世話になるでしょう。
クラブ会長時代や次期北海道部部長である私に対して色々と親切にして戴いたことは忘れません。

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